軽くなっていく。

軽くなっていく。

例えば自分が「いいな」と思っていたものでも、誰かが「取るに足らない」と言ったのを見聞きした途端、それまでよく見えていたものが霞んで見えてしまう。そういうことはよくあることだろう。

自分の価値観が確固たるものであれば、自分自身に対してもっと肯定感が強ければ、信頼感があれば……。誰かのひとことで揺らぐことは少なくなるのかもしれない。

そうなんだろうなとほとんど確信しているのにも拘らず、私は簡単に揺らぎそうになる。自分がなにかをいいと思ったその少し後にはすでにつまらないと思うことにも、自分自身が誰かにとってその対象になっていることにも。

人は誰かに軽んじられているものを大切にし続けるよりも、他の誰かも大切にしているものに価値を見出すほうが安心できるものだろう。

一度誰かに軽んじられたものの価値は下落しているように見えるかもしれない。私は見栄えの悪い蚤の市を愛しているので、誰かにとって透明同然になったその物の価値が目減りしているというふうには思わない。

けれど
だからといって、軽んじた人が愚かなのだから気にするなと言い切るような強さを持っていない。ただあらゆる視点のなかを惑う。傷ついているのかもしれない。怒っているのかもしれない。笑ってみているのかもしれない。

「知恵袋」や「Quora」といった相談板のようなものにキーワードを打ち込み、似たような悩みを持つ人の困りごとと回答を読んでみる。

他人に期待し過ぎているのではないか、自分の気持ちを優先すべきではないか。「失礼を承知で申し上げますが、あなたはナメられているのです」。

回答を読みながらどの人がいうことも一理ある気がしたと同時に、どれにも「ベストアンサー」をあげられない気がした。それらアドバイスが質問者を悩みの場所から引き上げて、自信を持たせ、立ち直らせようとしているものばかりだったからかもしれない。

常に他人の内面や振る舞いが気になるのは、ひどく気に病む時期があるにせよ、私にとって切っても切り離せないものになっている。ネガティブもポジティブも、そこにある関心の根幹が他人の存在であるからなんだろう。

ついでに武装のような自信や揺るがない価値観には疑問があって、それらを真似して身に纏うことに抵抗がある。属性や年齢や社会的立場、職業、持ち物、習慣など。そういうものたちが絶えず私に「もつべき自信や価値観」を囁き続けるけれど。ナメられてもよいので、欲しいのはナメられていることを自覚しても自分の痛みや不甲斐なさに打ち勝てるだけの他人への好奇心の強さである。

30代。とにかく自分のことに集中するべきと思いながら、できれば両立させたい。他人なしでは私は陽にも陰にも振れない。そういう人生を求めてないことに遅まきながら気が付きはじめている。

You may also like