シールみたいに買えたなら
「お揃いのもの」に思い入れはもともとないほうだと思う。むしろ他人と全く同じものを持つのはつまらないとはっきり思うほうで、だからこそ「違う」ことは喜びだった。はずだった。
「お揃いのもの」に思い入れはもともとないほうだと思う。むしろ他人と全く同じものを持つのはつまらないとはっきり思うほうで、だからこそ「違う」ことは喜びだった。はずだった。
フラメンコを初めて観たのは2021年、スペインに1年限定で住んでいた時に旅行で訪れた南スペインでだった。スペインと言えばフラメンコのイメージが当然のようにあったけど、住んでいたバルセロナでよく見かけるのはルンバ・カタラーナで、所謂フラメンコが南スペインのヒターノたちによる踊りを指すことを知った。
特に何か持病があるわけじゃない。ただちょっとした不調が増えただけと言えばそうだし、皆口に出さないだけで不調との付き合い方を試したり、鍛えたりしている人のほうが大半なのかもしれない。
でも、そもそもそんなに丈夫だったんだっけ?と最近よく5年くらい前までのことを思い返す。我ながらバリバリと遅くまで働き、いろんな場所に顔を出し、寝食を疎かにせざるを得なかった日々のことを。
私たちは生まれる場所を選べない。生まれる時代も、たぶん生まれる星も。そのどうしようもないことに時々思い当たり、心底不思議に思う。例えば戦争のニュースを聞くとき。当該国とされる国々の、いずれの市民でもある可能性があった(ある)のではないかということ。
『愛するということ』(The Art of Loving)はドイツの社会心理学、精神分析、哲学の研究者であるエーリッヒ・フロムの著書。初版は1959年、私が読んだ新訳版は1991年に出版されている。最初に出版されて60年以上経つにも拘らず、本書が説く「愛」「愛する技術」は古びるどころか現代ますます切実さを帯びて響いてしまうようだ。(初版当時の物言いや時代ゆえの古さはある。その点、新訳版がおすすめ)
私は2020年から1年間、バルセロナに滞在していた。毎週通っていたエンカンツの蚤の市の気のいい店主がJaferだ。飄々としていて和やか。歌うような調子でお客や同業者に挨拶する姿を行くたびに見かけていた。
例えば自分が「いいな」と思っていたものでも、誰かが「取るに足らない」と言ったのを見聞きした途端、それまでよく見えていたものが霞んで見えてしまう。そういうことはよくあることだろう。
「この人のためなら死ねる」と思ったことは一度だけある。ひとりの他人と同じくらい思い合って、伝え合って、お互いがお互い以外にいないと信じていた時のことだった。
それは恋愛ではなかった。
今年初めに母のヨーロッパ旅行に同行した際、再訪したスペイン・バルセロナでは(その全ての人に会うのは叶わなかったけれど)会ってどうしてもお礼を言いたい人たちがいた。アパートの隣人マルタとその仲間たち、バルセロナの生活を何倍も楽しく心強いものにしてくれた現地の日本人の友人たち、そして八百屋のお姉さんと蚤の市の店主Jaferだ。
モスクワにいるAnnaと通話した。彼女とはバルセロナに暮らしているときに友人になったロシア人で、先日のスペイン旅行で会う約束をしていたのだけどVISAの更新ができずに一度帰国を余儀なくされ、今はモスクワでVISAが降りるのを心待ちにしている。