目を澄ます
今年すべての出来事のなかでも、秋に参加したダンサー・振付家の湯浅永麻さんが主催するnosmosisによる連続ワークショップ「ダンス&ダイアローグ」は印象に残っている。
私のようにダンサーではない人でも参加できるダンス関連のワークショップ(WS)は、一般的には身体の動かし方、イメージと身体のつなげ方のようなテーマで開催されることが多いように思う。
身体表現を用いる対話的コミュニケーションに主眼が置かれたnosmosisのWSは、自分の踊らない日常とのつながりを感じやすかったゆえに強く心に残った。身近に感じる一方で、初めて意識することが多くあり、気になったことを数日にわたって反芻することもあった。
一番最初に思い出すのは、WS初回。ワークを始める前に永麻さんが「他人に触れることにちょっとでも抵抗があるひとはいますか」と投げかけてくれたこと。
これまで参加してきたダンスのWSは基本的に触れること、触れられることはある種当たり前のことだった。心理的にも自らWSに来ておいて「他人に触れるのに抵抗がある」と表明するのはちょっと難しく感じていた。内心では、身体的な接触はどうしても緊張してしまいそれが引き金になって汗が引かなくなることも度々あった。「触れる/触れられる」は逃げ場のないまま自分の動揺を他者に知られてしまう辛い瞬間だった。
心では触れたくないわけでも、触れられたくないわけでもない。むしろそういったオープンで親密なコミュニケーションは好きだ。ただ、言葉ではぎりぎり繕える自分自身の強張りを、身体では繕えないということが怖かった。身体表現を用いた対話というテーマに惹かれた理由のひとつに、そのもどかしさがあったのかもしれない。
「身体と心を一致させたい」という願いだった気もするし、「別々になってしまう状態を受け入れたい」という思いだったかもしれない。
とにかく、永麻さんのひと言があったおかげで「言ってもいいんだ」と思えた。その安心感の効き目は長く、最後のWSまで空間の隅々まで満ちていた。毎回、ここが安全な場所であるということを永麻さんの言葉や身振りが伝えていた。だからこそ、後のWSで「触れる/触れられる」ワークもやったけれど、これまでのように過緊張になることなく終えられたのだと思う。
いつしか実際に少しでも相手の人のことを知っているかどうかは関係なく、「知らない・知れない」と思うところからペアでのワークを始めるようになっていった。一見それが不安を生みそうなものだけど、知らないからこそ目が開かれ、感覚が澄まされ、モヤモヤとした不安は薄まっていった。
こちら側が「知っている」という感覚の延長線で思ったことを伝えるというかたちではなく、「知らない・知れない」という地点から相手に向き合うことで、双方が互いの気配を受け止めることを可能にするような余白のある瞬間が時々訪れたように思う。
WSで自分が触れている相手の人の感覚を想像してみたり、触れた先の掌の暖かさや感触に集中できる体験は心地よくて静かな感動があった。
また、その後のWSでペアを組んだ人と替わりばんこになって動きや表情を写鏡のように見せ合う(細部の完璧さを求めるのではなく呼吸を合わせるような意識で)というワークがあった。このワークは、ペアを変え交代のタイミングを変えながら何度かやったのだが、その際に永麻さんが言った「相手に『なった』ように動くこと」と「広い視野を持ちながら、聴くように観ること」は一連のWSのなかでもらった一番大切なガイドだったと思っている。
とはいえ、すぐにできたわけでも今それを会得しているわけでもない。私自身の軸を委ねるのでなく、相手に「なる」つもりで感覚を集中させ、かついろんな人のいる空間に自分という身体を広げていくのは本当に難しい。難しいけど、真っ直ぐに観る/観られるということがどれだけ気持ちが良く、深い思いやりがベースにあることを感じられた体験だった。
誘導されない対話は楽しい。決めつけられない対話は心地よい。そして、リスクを互いに負っている。
ふと、かつて過去の出会いをテーマに連載したウェブマガジンの最後の記事で、「その人越しに見たもの感じたものを包み込むように、誰の足跡もついていない雪原がその人を覆っているということを繰り返し思い浮かべる」と書いたことを思い出す。その頃の私は自分が丸裸でいるだけでは気が済まず、相手に関しても「できるかぎり正確に」理解することに情熱を傾けすぎていた。それが到底無理な願いであることにも、相手を傷つけかねないことにも、長く気がつかずに。
たくさんの記憶を書いた連載の最後、漸く人と人との埋まり得ない距離や心のわからなさを見つめるラインに立てたのだった。表情や心の内を「読むこと」は、どんなにその精度が高かったとしても、片方の先回りであり多くのすれ違いを孕むものなのだと今は思う。
耳で聞くことは、無意識であればただの音で視覚よりも情報が少ない。開けた視野で見るように耳で聴く大切さ。そして、耳で気配を感知するように目で観ること。すでに見えていると思っているものを脇に置き今一度観ようとすることの忍耐。そうして、目を澄ますということ。
そうすると、自分が一塊の情報だと捉えていたものが細やかで明らかな差異があり、別々の名前を付けられるようなものだったのか!と見直すことになったりする。
そういった差異を今の私はいくつ身体で表現できるだろう。心とつながった対話のサインを違和感なく使えているだろうか。そしてそれは私やあなたを丸裸にするのではないかたちに辿り着いているだろうか。
いろんな人が同時に存在する場所で無意味だと投げやりになることなく、ずっと影になるわけでもなく、勝手にすべてを背負い込むこともなく立ち位置を変えながらも、ハンドルからすっかり手は離さずに。
まだまだ聴き足りなかったけれど、全5回あったWSも終わってしまった。日常からふわりと離れて、普段は交わらない参加者の人たちと安心して互いを差し出せる素敵な時間だった。日常はこのようにはいかず、自分のチューニングが終わる前に人も時間も目の前から過ぎ去ってしまうことばかり。それでも楽器と同じで練習は欠かせない。
瞬間を心待ちにして、たくさんの人のなかに身を置きつづける。たいてい流れ去ってしまう。だけど、私のなかにはWSの体験が残っていて、まだ育ちそうな気配を感じている。
永麻さんのガイドをお守りにしながら。