白
「好きなものがあって羨ましい」と言われたことは一度じゃなかったので、自分にとって苦労して獲得したものではなかったけれど自分はラッキーなのかもしれない。そのくらいのぼんやりとした輪郭でその言葉を受けてきた。また、目の前の人にだって好きなものはあるだろうにまるでないかのように言うのが不思議だった。
より正確に話せば、私は昔から好きなものがはっきりしていると言うよりも嫌いなものがはっきりしていたのだと思う。その結果気に入っているものが好きなものとして際立って見えていた……。私にとってというよりは、おそらく外側にいる人たちから見たときに。
好きなものも嫌いなものも、この頃私の内側からあまり感じられないでいる。
好きを掘り下げていく道の途中でそれがあまりにぼんやりしていることや以前ほどの熱量を持っていないことに気がついた。やり遂げもしないうちに飽きてしまったのか、醒めてしまったのか。そのことに自分自身がゾッとして昔描いた自分の未来から逸れる勇気も持てない。
同時に嫌いなものに対して憤ったり憎んだりすることも少なくなった。許さない、という気持ちはこれまで何度も私を鼓舞してくれた強い感情だったのに。「誰の心も知り得ないところがある」ということのほうが真実に近いんじゃないかと考えることが増えた今、その余白によって感情の昂まりの行く先を見失うことが増えたのだった。
嫌いなものへのエネルギーを失うことが好きなものをぼやけさせるなんて、この頃まで気がつかなかった。好きを好きだけで表現できないのは私の悲しさ。
「好きなものがあって羨ましい」と零した人たちの気持ちは以前より自分に近いものになったし、私自身、実際に口にすることすらある。なにかを始めて結果的に立ち止まったり辞めたりするひとたちに対する考えも大きく変わった。動いていないように見えて、内側では必死に動いていることはたくさんある。すべての決断が大変なことが想像できる。
嫌いなものがはっきりしていてたくさんあって、好きなものが煌めいていたとき。今に比べて他人にあまり深い関心も優しさもなかったのかもしれない。自分の感情ばっかりで。
ただ、依然として自分の弱さが許しがたい。自分の本当に欲しいものを自分自身が選びとる、それが許される環境にいてできないでいる状態に「信じられなさ」が降り積もっていく。