喜び(Alegría)と孤独(Soleá)

喜び(Alegría)と孤独(Soleá)

フラメンコを初めて観たのは2021年、スペインに1年限定で住んでいた時に旅行で訪れた南スペインでだった。スペインと言えばフラメンコのイメージが当然のようにあったけど、住んでいたバルセロナでよく見かけるのはルンバ・カタラーナで、所謂フラメンコが南スペインのヒターノたちによる踊りを指すことを知った。

訪れたマラガでは屋外で夜まで演っていたフラメンコ・フェスティバルのようなものを偶然目にして「さすが本場。探さなくてもフラメンコが観れる!」と驚いた。コルドバではフラメンコショーを毎日演っているレストランに行ってみた。明らかに観光客向けのお店だったのでショーにあまり期待していなかったのだけど、初めて間近に観たフラメンコ・ダンサー(Bailaora バイラオーラ)の気迫、美しさ、ギターの凄まじさ、遠吠えのように胸に刺さる歌に心底震えた。これがフラメンコ……!

セビージャではタブラオ(Tablao 板張り舞台のあるフラメンコを見せるバーやレストラン)でフラメンコを観た。レストランのように食事メインのお店ではなく、短時間集中で踊りをじっくり観れるところだったのが良かった。(フラメンコを観ながら食事って、あまり相性が良いようには思えない。最中は胸がいっぱいになってしまう)。

バルセロナにもタブラオがあって、そこでも素晴らしいショーを演っていて何度か訪れた。男性のフラメンコ・ダンサー(Bailaor バイラオール)を初めて観た。フラメンコといえば「情熱的」というのがお決まりだけど、「つんざくような悲しみ」が私が観たバイラオールから感じたものだった。

帰国後、日本では観たことのなかったフラメンコ。「バイレフラメンコの女王」と呼ばれるManuela Carrasco(マヌエラ・カラスコ)が引退公演を行うと聞いて、ほとんど知りもしないのに観てみたくなって公演に足を運んだ。予約システムもメールでしか受け付けないアナログさだったし、派手な宣伝をしていたようには思えなかったけど、会場はほぼ満席。「フラメンコダンサー人口はスペインに次いで日本が世界2位」という嘘みたいな話を聞いたことがあったけど、それはたぶん真実。フラメンコの踊り手に掛けるハレオ(Jaleo)という掛け声も(一朝一夕ではできない……)観客席から飛び交っていた。

Manuela Carrascoの踊りは、踊っていないように見える時間が存外長くて、背中側に引き寄せられて上げたままの腕は静かなのに迫力があった。その腕がゆっくり動くことで感じられる「重さ」は表面張力でコップの縁スレスレを堪える水のように思えた。そして正しいタイミングで最大になったその重さを放出する。手放す。それはたしかに情熱的だけど、感情を心の深いところに留めようとする忍耐や振り切るような覚悟を感じるもので、静けさと肩を並べ得るもののように感じた。

踊りを見てそんなふうに感じたのは本当なんだけど、Manuela Carrascoの踊りを語る言葉を、私はまだ持っていないように思う。本当のことを言うと重さが意味するものが体感としてわからない。感情としてまだ体験していないような気がしてならない。深い悲しみや愛、嘆き、誇り、渇望。

感情的であることと豊穣な感情を内に持つことは違うんだろう。でも違いを体現できる?アーティストとしてそれができなくても、ひとりの人間としてそれを目指すのはどうだろう。そのとき、フラメンコを観たら体でわかることが今日よりもあるだろうか。触れるものが自分のなかに見つけられるだろうか。

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