シールみたいに買えたなら

シールみたいに買えたなら

「お揃いのもの」に思い入れはもともとないほうだと思う。むしろ他人と全く同じものを持つのはつまらないとはっきり思うほうで、だからこそ「違う」ことは喜びだった。はずだった。

子どもの頃は多くの子どもたちがそうであるように、友だちの持っているものが欲しかった。女の子の人形、シルバニアファミリー、セーラームーンのおもちゃ、流行りのカラーペン、筆箱、学習机、ノート、バッグ、シール。

友だちと同じ男の子を好きでいるのが楽しかった。小学4年生頃の話なのでとても平和で、同じ男の子が好きな女の子みんなでバレンタインのお菓子を作って一緒に渡した。それだけで楽しかった。

だんだん、でも急速に、同じであることが無理になっていった。同じが格好悪いとかそういう体裁のような理由ではなく、単純に無理になった。同じ持ちもの、同じ遊び、同じ友だち、同じテレビ番組じゃない部分で人生が子どもの私に侵食してきたからかもしれない。

そこからしばらくお揃いと無縁でいることは自分の生き方であり誇りのようなものになっていった。思春期らしいといえば陳腐だけど、私の場合ずいぶん長くその状態であったようで、本当につい最近まではそんな感じ。他人と同じようなライフスタイルじゃないことを、親戚や家族のなかで浮いていることを、少なくとも恥じてはいなかった。

だけどこの頃思う。好きな者同士、お揃いが叶うのは人生のほんの一瞬の時期しかないんじゃないか。なかったんじゃないか。お揃いだね、と言ってふふふと微笑むことができるのは奇跡みたいな時間だったんじゃないか。だってこんなにももう、好きな人たちと時間も大切なものも揃わなくなってしまった人生にいる。各々の世界をつくるものがシールみたいに買えるものだったら肩を並べて分け合えるのに。

そんな馬鹿げた考えを拭うため一日に何度も立ち止まる。それぞれの人生にわからないものが増えて、逆立しても手に入らないものがお互いにあったとして、それは受け(入れ)流す以外に術がない。

問題は人生が複雑になることじゃなく、私の人生が複雑さを遠ざけてシンプルなままであることなのかもしれない。

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