そこここに春がくる
モスクワにいるAnnaと通話した。彼女とはバルセロナに暮らしているときに友人になったロシア人で、先日のスペイン旅行で会う約束をしていたのだけどVISAの更新ができずに一度帰国を余儀なくされ、今はモスクワでVISAが降りるのを心待ちにしている。
「東京の気候は今どんな感じ?」と聞かれて日中は随分日差しが暖かい日が増えたよと答えると、モスクワはこんな感じ、と窓の外の雪景色を見せてくれた。空は青青としていて綺麗だったけどまだまだ冬の只中という白さだった。
プーチンの演説のあった次の日だったけれど、私たちはどちらも戦争については触れなかった。ロシアによるウクライナへの侵攻がはじまって1年が経っていた。
以前ハイキングをしながら聞いた話によると、彼女の一族はアルメニアからロシアに渡ってきたのだそうで、祖母や親はモスクワにいるけれど親戚はウクライナやイスラエルに散らばっている。彼女自身はバルセロナの前はロンドンで学んでいて春からバルセロナで就職が決まっている状況だ。だけど、それもVISA次第(最大半年掛かると言われているとか…)なので現在彼女が置かれた状況にはやきもきしてしまう。当の本人は自分がどうにかできる範疇にないことをわかっているため、いっそ落ち着いているように見える。
Annaは私よりも少し年上だけど、小柄で可愛い雰囲気がなんとも親しみやすく、笑い上戸で優しい性格をしている。当時の彼女はインタラクションデザインのマスターに在籍していたけれど、学外の私をよくいろんな機会に誘ってくれた。フレンドリーな雰囲気を放ってはいるけれど、少人数でじっくりゆっくり話すのを好む人だった。
ふたりで海に遊びに行ったりしたのはとても穏やかな思い出。バルセロナに日本から持っていったアン・モロウ・リンドバーグの『海からの贈物』英語版を海に持っていき彼女に見せた際、その場で少し読んで「もっと読みたい」と言ってくれたことを嬉しく覚えている。
ひとりで過ごす時間を肯定的に捉えている人とは結果的に共有できるものが多い。『海からの贈物』を好きだという人はその点で同士である。
私たちは通話のあいだ意図的に話題を選び、彼女は自分の話題を避けた。代わりに私の母との旅の話をたくさん聞いてくれて、私はニースで名物のブイヤベースを有名レストランで意気揚々と食べたけれどあまりに量が多かったせいでその晩私も母もひどい腹痛に見舞われたという、とっておき話をして彼女は大いに笑ってくれた。
「ロシアでは今週はパンケーキを食べ続ける週なんだよ」と通話の後半でAnnaが教えてくれた。そんな習慣があることを知らなかったので冗談だと思ったけれど、キリスト教にまつわる伝統行事でイギリスなどでも復活祭前の告解の火曜日(Shrove Tuesday)を「パンケーキ・デー」と呼んでパンケーキを食べるのだと検索で知った。
同時期なのでロシア版のパンケーキ・デーなのかなと思うと、正確にはロシアにキリスト教が広まる前からあったお祭りなのだそうで、マースレニッツァ(Масленица)と呼ばれている。古来のお祭りは春の到来とその年の豊作を願うために自然の神様に対して行われてきたものだそうで、現在はその流れを汲みつつキリスト教の復活祭と融合した祝祭となっているという。
パンケーキと呼ばれるものはロシアではブリヌイ(Блины)というバターをたっぷり使ったクレープを指すようで、付け合わせは塩漬けのイクラ(!)やサワークリーム、ジャムなどが一般的らしい。これを7日間、曜日ごとに決められた異なる相手にブリヌイをご馳走したりされたりしながら過ごし、最終日に冬の象徴であるカカシ人形を燃やして春の到来を祝うのだそう。(参考:https://ruslife.net/maslenitsa/)
「私も1日くらい焼いて食べようかな?と思うけど、とにかく材料を揃えて計量するのが面倒で……」とAnnaは少し上の空で言う。今年のロシアでも多くの人々がブリヌイを焼いて春の到来をお祝いしたり、してるのだろうか。7日間のなかにはお婿さんを義母が家に招待してブリヌイをご馳走する曜日や親戚を呼んだりする曜日もあるけれど、戦場にいたら叶わない。この世にいなければもっと叶わない。
春は訪れ暦は同じ速度で近づき過ぎ去っていく。冬の長い国において春の到来を祝うお祭りがどれだけ嬉しいものか、北の出身なので少しはわかる気がしている。だけどもうしばらくは食べたくないって思うだろうな、ロシアのマースレニッツァは。同じような味を食すのに7日間は長すぎる。
それでも、そんなお祭りが年に一度やってきて過ぎ去っていくことくらい世界のどこでも心置きなく叶ってほしいと思う。