大丈夫じゃない身体

大丈夫じゃない身体

特に何か持病があるわけじゃない。ただちょっとした不調が増えただけと言えばそうだし、皆口に出さないだけで不調との付き合い方を試したり、鍛えたりしている人のほうが大半なのかもしれない。

でも、そもそもそんなに丈夫だったんだっけ?と最近よく5年くらい前までのことを思い返す。我ながらバリバリと遅くまで働き、いろんな場所に顔を出し、寝食を疎かにせざるを得なかった日々のことを。

販売職に就いていたときも、編集職に就いていたときも、仕事自体は楽しく思うことが多かったけれど人間関係には常に悩みを抱えていた。その悩みが燃料になって力を与えてくれたりもしたけれど、終業後は泣いたり怒ったりせずには寝れないことも多かった。

前夜はちゃめちゃに泣いたとしても翌日は仕事に行き、夜はよくライブも観に行っていたこと自分を「なんだかんだ元気だったな」くらいに思っていた。それは勘違いだったと思う。

その頃、仕事じゃない日の日中にたびたび倒れ込むような強烈な眠気に襲われていた。その眠気は単に寝不足からくるものとは違っていて「強制シャットダウン」に近いものだった。身体はきっと、もっと早くからサインを送っていたのだろう。それに気が付かなかったし、気に留めなかった。休めば有給が減るし、有給がない身分だったときにはそっくり給料が目減りしたから気が付かないほうが好都合だった。

眠気が酷くなるのは決まって休日だったので「不調は不調でもコントロールできる不調」だと思っていたけれど、家族の大事な用事で故郷に帰っている状況に拘らず、着いて早々寝てしまい家族に咎められたことがあった。呆然とした。社会からOUTを突きつけられるのには耐えられなかったけれど、家族には理解してほしかったのだと思う。会社を辞めることを考えはじめていた時のことだった。

ちょっとした緊張が続けば遅れる / なくなる / 生理。痛くなる内臓。冷たくなる手足。

なんでだろう?と思い巡らすと「まさか、あれくらいで?」と自分で思うほど些細なことが多い。アラートを発する心の言葉が頭の中をいっぱいにする頃にはもう、体のほうは閉ざしてしまう。「あれくらい」のことは自分にとって持ち堪えられる重さだったのか。いち早く体の言葉を聞く術を知らずにここまで来てしまった。

踊りを観るようになって、ダンサーの友だちが開くワークショップに時々参加するようになって、身体の言葉を意識するようになった。身体と言葉、身体とイメージをつなげていくことや呼吸に意識を向ける時間が心にまで新鮮な感覚を与えてくれることに毎回驚く。まだ馴染みのない心身の接続作業に苦労している。そして鍛えられないままになっていた自分のあまりに「柔」なところを発見する。

あるいは。踊りを見ながら、喜ぶ体ついてあまりに関心が薄かった、ということを考える。どんな時に、どんな場所で体が喜ぶのか。丘のような小高い場所で受ける風、人の少ない芝生の上、海辺の波のゆらゆら、窓際の机の落ちた光、空いている日中の電車、小雨に濡れて、仰向けで眺める雪、屋上に立つ…….。

チェロは私の体が最近一番気に入っているものだと思う。私自身は上達を軸にチェロとの付き合いを捉えているところがあるけれど、私の体は単純にチェロを気に入っていることがわかる。体調が悪い日もチェロを弾きはじめると瞬間的に回復するから。血行が良くなるとかそういう効果もあると思うけど、体がチェロを気に入っているということは間違いない。そうでなかったらわざわざ具合の悪い時に弾かない。

身体のなかを視る、聴く、触れるように黙るのもいい。休むんじゃなくて、むしろ集中して黙る。これもまた、今の私には難しいと感じるけれど。

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