女友だち

女友だち

幸せなことに、友人には恵まれてきたと思う。いじめに起因した不登校時代を含めても、私に大好きな友人がいなかったことは片時もなかった。その多くは女性で、とりわけ年上の友人が多い人生を送っている。

友人と呼ぶのは申し訳ないような、経験を積んだ人生の先輩たち。優しさに甘えて友人と呼ばせてもらっている。親しいけれど、同じラインに並ぶことはない。追いかけるような存在。

自分に兄姉がいないことも関係しているかもしれない。追いかけることのできる存在に強い憧れがあった。仲間入りできたときは天にも登る気持ち。それだけに、高校生の頃仲良くしていた先輩たちが卒業してしまい自分だけが残った最後の1年はとても辛かった。青年期の1年という月日は大きい。先輩たちの悩みや楽しみを私も1年分だけ早く横で体験できたことは鮮烈で、胸が高鳴る日々だった。

小学生だった私の側には親子ほどに歳の離れた親しい近所のお姉さんもいた。ラジオの仕事に就いていて、音楽、特にジャズのCDをいろいろと聞かせてくれた。また、親でも同級生でも先生でもない人に話したかったことの数々もたくさん聞いてもらった。私の「文化」への憧れをつくった人でもある。地方育ちだったこともあって、姉さんを通じた文化への漠然とした憧れはどんどん加速した。

東京でも、今でも、音楽や映画やダンスを通じて自分には到底追いつけないほどの感性をもつ年上の友人たちに憧れつづけている。知るために、視るために、時間を費やすことの美しさと知性。そういうことを身をもって知っている人たちであり、決してもう十分というふうにならない知的体力のある人たち。例えその地に旅行したことがなくても、そこに通づる何かを知っていてそこで暮らす人たちを案じられる人たち。

憧れが私を歩ませている節はあるけれど、決して誰かと比べて私は私の女友だちが好きなわけではない。特に自分の母にはそれをわかっていてほしいと思う。自分のほうが歳の近い人を私が話の端々で友人と紹介するたび、困惑する顔を見てなんとなく胸が詰まる思いがしていた。

「そういう意味ではない」と性急に言いたくなる気持ちを飲み込んだところで、その居心地の悪さをどうすることもできない。私だけのものではない居心地の悪さを適当な言葉で緩和するのは他の誰かを軽んじることになるのでできない。そして、私は本当に話したかったことの出口を見失う。

小学生くらいのときから、私のなかにはさまざまな女性の人生への強い関心があった。その頃から江國香織が好きなのも、役割や世間に溢れる型にはまらない女性たちが次々と登場するからだと思っている。いろんな女性の人生を垣間見るたび、私は自分が憧れたいところを探してしまうことに気がついた。この関心には今のところ終わりがない。

この極めて主観的で身勝手な感情は、今いるところからまだ遠くに行きたいという尽きることのない欲望なのかもしれない。もっと遠くで、知らない人に出会いたい。

高校生の時の私みたいに、みんなが人生を先に「卒業」してしまったら再び寂しく辛い時間を過ごすことになるのだろうか。

私は憧れるだけの自分を追い越していかないといけない。自分の憧れる力が衰えないうちに、輝いているものを自分で詰まらなくしてしまう前に。

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