根本的な信頼を得るということ
赤ちゃんとほとんど無縁の人生を歩んできた私が赤ちゃんのシッターを頼まれるとはそれまで思いもしなかった。これは頼まれた当初私が子育てについて無知だったからこそ引き受けられた話であり、依頼主である友人と私のあいだに未知のことにともに挑戦できるほどの絆があったからこそできた話。知ってしまった今は、同じことを同じ熱量でできる自信はない。今日書くのはその赤ちゃんと私のあいだに起こった出来事。
ある日私の突拍子のない愛すべき友人から「チェコで1ヶ月の仕事を打診されているけれど11ヶ月の娘をみてくれるシッターが見つからない。一緒に来てくれないか」と短いボイスメッセージを送られてきた。彼女にとっては挑戦となるその仕事を受けたいと心底願っている友人の心情が感じられたし、チェコに同行するなんて旅好きとしては断る理由がない。(良いか悪いか別として)しなければいけない仕事はなく、時間はある。問題は赤ちゃんのシッターを赤ちゃんに馴れてすらいない出産未経験の私が担うという一点のみだった。
なぜだか彼女はその点に関しては楽観的で、私なら大丈夫だろうと言ってくれた。出発までの数ヶ月、できるだけ彼女の仕事場や自宅について行ってシッターの練習をすることに決まった。顔を覚えてもらうことを最大の目的に、おむつ替えや寝かしつけ、食事の内容や量を少しずつ教えてもらいながら、でも当然部分的なことしか実習できできないままあっという間に渡航の日になった。
赤ちゃんは好奇心旺盛かつ他人や知らない場所に対してもオープンな気質で意志が強く、よく寝てなんでも食べてくれたので、赤ちゃん初心者の私は大いに助けられた。「赤ちゃん」そのものに強い思い入れがない私は赤ちゃんをひとりの小さい人間として捉えたい気持ちが強かったのだけれど、友人の赤ちゃんはいとも簡単に小さな人間として遊び、考え、行動する姿を見せてくれて心強かった。同時にその積極性によって身近な大人が何を気をつけて何から赤ちゃんを守らなくちゃいけないのかを明らかにしてくれたので、短期間で私の視界もずいぶん変わったと思う。
私たちは友人が仕事のあいだふたりきりで過ごす時間が多かったので、ベビーカーや抱っこ紐でスーパーに買い物に出たりトラムを乗り継いで動物園に行ったり散歩に出かけたりしていると、街の人々は私の赤ちゃんだと思い込んで声を掛けてくれたりする。そのたび、可笑しさとくすぐったさが込み上げる。一緒に過ごすことを受け入れてくれて一緒にどこへでも行ってくれた赤ちゃんに対してなにか特別な気持ちが育っているのを感じていた。
赤ちゃんにとって親をはじめとする家族は別格であり世界の中心だ。1歳近くなって人見知りがはじまるとそれ以外の人間が赤ちゃんとふたりきりで過ごすのは赤ちゃんにとって不安なものであり、不快でもあると思う。友人の赤ちゃんは誕生して間もなく多くの人に可愛がられながら、日々さまざまな場所に連れられて過ごしてきた逞しさと他人に対する信頼が育まれてきた部分がとても大きいと思うけれど、それでもその赤ちゃんに安心して身の回りのことを任せてもらえるのは、私の今まで触れられたことのない感情が色づく経験だった。
これほど根本的な信頼を他人から得た経験は初めてだったと思う。愛情で応えたいと思った。
友人の仕事は成功を収め、長いようであっという間だった5週間のチェコ滞在も終わり、フライト変更やロストバゲッジなどこの時期にありがちだった問題に翻弄されつつも全員無事に帰国できたことで一旦この冒険は終わりを告げた。その延長線上でときどきシッターを続けながら、今度は自分の気持ちがそれまでと違う感情に侵食されていくことに気がつかないわけにはいかなかった。
赤ちゃんにとって自分が家族でも友人でも他人でもないことの切なさだった。