わかること、知り得ないもの
私的なベビーシッター体験を思い起こして書いた先日のブログは、私の予想と反して数日のうちに最も読まれた記事となった。普段インテリアや蚤の市について書くことはとても楽しいけれど、自分の心のなかのことを書くことは苦楽以前に必要なことなのかもしれない。自分にとってインテリアという言葉が物質を表しているのではないことを改めて思う。物も人間も記憶のような掴み所のないものさえも、インテリアのなかで溶け合っている。
人は自分がある立場にあって初めて理解することが圧倒的に多いものなのかもしれない。知識として知ることはいろんな方法を駆使すれば可能だし、理解に至るのに必要なステップだと思うけど、知識単体では足りない。一方で自分が実際にその立場に立ったとき、その立場がどういったものなのかを知識として知っているかに拘らず、直面する初めての出来事に頭よりも心が反応する。弾けたり、感動したり、ひどく傷ついたり、怒りに震えたり…….。
そして自分がその瞬間まで知らなかったことを生まれて初めてくっきりと感じることができるようになる。
それを何度も繰り返すことで世界に対する自分の理解は広がったり深まったり謙虚なものになっていくのだろう。だけど、それにはタフさと繊細さのどちらもを動員することになる。ある立場に進んで立つこともあれば、意図せず立たされることもあるからだ。知識も予測もないまま自分を世界に晒すことになり得る。それは考えはじめればひどく億劫なことだ。
このあいだ、私は母親の立場を少しのあいだ傍で垣間見て同時に保育人の立場を体験した。振り返ってみると、血縁者でもなくプロでもない保育人という立場は私にとって本や映画やニュースの見え方を変えてしまうほどの衝撃だったと言わざるを得ない。
私自身は実はそういった保育人のひとたちに自分も育ててもらったという自覚がある。先日紹介した『沈没家族』のような密度ではないけれど、家庭と学校の外側にいる信頼できる大人(ともだち)に居場所をもらって辛い時間をどうにか過ごしてきた。だから他人よりも居場所に悩む子どもや子どものいない大人の心情を見知っている気がしていた。
でも自分が知っているのは過去の自分を経て今の自分が思い出せる感触や感情のみであって、その当時の感情ではないし、他人を見て感じとった印象や心情は私がその時点での自分の経験をもとに想像できた範囲内でのものであって、その当人にとっての真実ではないということを今つよく思う。
「人の気持ちってそんな明白じゃないよね」と。ここのところ、なぜか続けてそう思わされる本や映画にぶつかっている。結論、私が自分からぶつかっていってるのに違いないのだけど、そういう作品だと知らずに当たっているので心底不思議がっていた。そして気がついた。今まで無知だった立場について少し実感が伴っただけのことなのだと。見えなかったものがあちらが発光してるかのごとく、はっきりと見えるようになっただけなのだ。
『雪と珊瑚と』(梨木香歩、角川文庫)は松本市で訪れた山山食堂で手に取ったのがきっかけだった。本があちこちに置かれたお店で小雨降る静かな午前だったので私もどれか読んでみようかと、目の前にあったその本を開いた。
シングルマザーの珊瑚がたまたま見つけた「赤ちゃんお預かりします」という張り紙を見てドアを叩くところからはじまる物語だった。導かれるように読み進めるうちに赤ちゃんを預かる年配の女性くららに親近感と好感を抱き、珊瑚の葛藤は「そういうふうに思うものなのか」と距離を感じたりする。自分に寄せて見ることがまだできない。
『C’mon C’mon』(マイク・ミルズ監督、2021年)はラジオジャーナリストの叔父と9歳の甥っ子の共同生活を描いた映画。質問と返答で構成されるやりとりが数多く映されるなか、質問されても答えられなかったり答えたがらない、誤魔化したり見ないふりする、わからなくて怒る、互いに理解できないやり方で互いを理解しようともがく……. 「早く終わってくれ」と思うようなうまくいかないことだらけの濃密な時間もいつかは終わりが来る。
大人になってからの数週間と子どもにとっての数週間という時間の流れにしても、ひとつの出来事やたったひと言の記憶の残り方にしても、大人と子どもでは違うものだろうし私たち大人は忘れられることにうっかり傷つかないよう、まるで準備ができているかのように振る舞ってしまう。
私もそう振る舞っていることにこの映画のエンディングで気がついた。映画を観てほしいので言及しないけれど、私は自分と関わる子どもに対して主人公の叔父のように言ってあげることもできるのだと知り目から鱗だった。大人と子ども、ある時点で生きてきた時間に差はあるけれど同じ時を生きているだけで共有できるものがあると思えるのは幸せなこと。
でも私には今のままでわからない人の気持ちがたくさんあるし、ひとつ見えたらひとつ見えなくなることもある。わかりたいというエゴを持て余して途方に暮れる。何か新しい立場を経験するたびに今回のような感情の起伏を味わうのかと思うと愕然とする。向き合うのに十分なタフさと繊細さをかき集められるか自信がない。
悩むよりも短い人生ならやってみようかと思うけれど比べようもない。
混濁する人と人の思いと、それぞれの人生の只中。